ゆいなの健康ライフハック

QOL(クオリティー・オブ・ライフ)を上げましょう♪

数学で世界トップクラスとIQと慢心

かつて、同じクラスに数学オリンピックの●賞受賞者がいました。IQも世界でトップクラスですし、今更MENSAとかに所属する理由もないです。数学で世界を救うアニメ(サマー何々)の主人公の設定が、数学オリンピック候補の予選落ちでしたから、本戦に出て●賞を獲った彼の「凄さ」は伺えます。

ですが。それだけ凄い能力を持っていようと、自分を凄い奴だなどと思い上がってはならない(慢心してはならない)という仏教のお話です。

同じクラスに凄い人物がいたというだけで、その影響力は絶大です。自分まで偉くなったような錯覚を起こします。

でも考えてみてください。世界で何位、IQが幾らといっても、それはそれだけのことです。能力を社会に貢献して役立てれば良いだけのことです。もしも「自分は偉いんだ」などという態度を取ったら周りから人が去って行くことでしょう。慢心は罪深いです。

仏陀の弟子で「慢心」に囚われた人物がいたそうです。仏教的には「慢心・怒り・貪欲」の三毒は慎まなければなりません。仏陀はその慢心した弟子を、僧全体で「無視」させる制裁をしたそうです。下に恐ろしき慢心という過ち。

能力が仮に一流だとして、「一流であることと善であることは別」です。もっと言えば「一流で無くても善人である方が友達ができやすい」可能性もあります。能力で一流を極めることは、それほど重要ではないのです。

MENSAに入りたいとか一流を目指したいという人はよくいます。でもそれは本当に目指す価値はありますか?

いい人であって友達を沢山作ってください。その方が人生楽しいですよ(^_^)

【楽観主義と悲観主義】。優秀なのは

楽観主義と悲観主義では、前者が優秀とされます。

楽観主義では「なんとかなるさ」という思考が、結果的によりよい成果に結びつきます悲観主義においては、「もうどうにもならない」という悲観(諦め)の結果、そこまで以上の成果は出せません。良くなる理由がないのです。

別の言い方で、悲観主義は「固定主義」とも呼ばれます。能力や才能は生まれ持ったものが固定されて一生続くという「固定」の発想。やはり発展の余地が無く、あまり優れていません。

逆に楽観主義は「成長主義」とも呼ばれます。生まれつき持っている能力の他に、「成長・発展の余地はあるさ」と考える思考で、やはり伸びしろを信じている分、よりよい結果が出しやすいです。

世の中の人を眺めてみましょう。
沢山書籍を出版している人でも、「人間は生まれ持った能力で全て決まるのだ」と悲観論・固定主義をとうとうと述べている人もいます。これらの人は伸びしろや発展の可能性を信じておらず、能力も限定的です。

逆にニュースによく出る米国の議員などはどうでしょうか? よほどのことが無い限り、彼らは「私は事態を楽観している」「私は楽観的だ」(I'm optimist.)と繰り返します。彼の国では優秀な人ほど楽観的だという説は知れ渡っています。

なら、次の選挙のことを考えれば「私は優秀です」とアピールできるチャンスは逃さないでしょう。政治的駆け引きがあって他国にプレッシャーを掛けたい場合などは「私はとても憂慮している」などとも言うようですが。

このエピソード、一連のディフィカルト・チルドレンと集中できる人できない人の話題とつながっています。

余計なことに囚われず、自分の仕事に集中できる人は余裕があります。そして余裕があるひとは「なんとかなるさ」と言う楽観主義になっていきます。そういう人が幸せになっていくのは自然な流れに見えませんか?

ここ数日で、QOLの高い人の生き方の一例を提示しました。「なんとかなるさ」と唱えたら、実際「それなりの結果」になっていきます。
頑張りましょ(^_^)。

教育心理学的な「反応」と「ディフィカルト・チルドレン」。心が漏れている人。

赤ん坊は一般に、雑刺激に反応するものほど知能が低いと言われます。優秀な子はひとつのことに集中して、他の刺激にいちいち反応しません。
教育心理学で学ぶことです。
逐一反応する子を、気むずかしい・育てにくいという意味で「ディフィカルト・チルドレン」と呼びます。
昨日のウォーキング中の反応の話題と一緒で、集中できない人ほど周りに反応して逐一見たりしてしまいます。
下記参照。
yuinaminato.hatenablog.com


この反応の傾向は大人でも同じです。人に雑刺激を与えて反応をコントロールするのがソーシャルゲームですが、遊んでいる人は「自分がコントロールしている」と思っています。

知能の高い人は自分から雑刺激にいちいち反応しようとしません。仕事中や勉強中に他のことに反応してしまう状態を、仏教では「心が漏れている」という言い方をします。集中できていない状態のことです。

SNSなどを見ると心が漏れている人は一目瞭然です。「この人は仕事中か勉強中のハズなのに、ずーっとSNSを頻繁に更新している」なんてことがよくあります。彼らは一様に「自分は凄い人だと周りから評価されている」というエピソードを織り込んでいます。が…。

ウォーキングにしても、勉強も仕事も結論は似ています。
ひとつのことを集中してやり遂げたときの充実感・達成感はかなりのものです。人は自分の選んだ作業である「仕事」に身を投じて一生を終えます。それゆえに「仕事に集中すること」の幸せを最上クラスの「幸せ」に位置付ける人々は多いです。

作業に集中したときの「フロー」「ゾーン」状態を神聖視する人々もそうですし、初期仏教の「作業に集中するのは幸せですね」と言う人もそうです。人生に余分な時間はあまりないからひとつひとつ楽しんでいこう、無駄にしないでいこうという想いの表れだと思います。

仕事中・勉強中に「心が漏れて」集中できていなかったら、結局「充実感・達成感」といったものを味わうことはないでしょう。無いことに慣れてしまうと一生そういった「幸せ」からは遠ざかることになります。
QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の高い人生を送りましょう。

【ウォーキング】で、【歩くときどこを見るか】悩む人へ

「前方の標識をみなくては」という普通の議論は置いておいて。実際には真ん前を見て歩くというのはどうかと思います。

ウォーキングをする人ならそれなりの交通量の少ない通りの時間帯を歩くと思います。
歩きながらの瞑想とも言えるウォーキングで、事故を気にしつつ歩くというのは無理があります。まずは適切なコースと時間帯を選んでください。

目線ですが、坐禅(坐っての瞑想)のときと同じ効果を期待するなら「前方数メートルの下方(地面)」の辺りを見ることになります。あごを引いて菩薩の目になると(以下の記事参照)そうなるからです。
yuinaminato.hatenablog.com
前方下方を見るのは、
余計な物をなるべく見ないためでもあります。たとえば、「今通った人キレイだな」「足もとだけ見えたけどどんな人だろう?」と、いちいち反応していたら運動としてのウォーキングも精神の鍛錬の瞑想も、上手くいっていません。

勉強や一時間歩くだけのことにしても、集中してやり終えたときの充実感は、結構なものではないでしょうか。ウォーキングで毎朝歩くとして、集中してやり終えると達成感もあり続けられると思います。

標識や乱暴な運転に反応するのはありとして、ウォーキングは心静かに集中しておこなってください。筆者は三年間で少なくとも一千万歩ほどウォーキングしたのではと先日書きました。

自分でやってみて、事故になど一度も遭いませんでしたよ。(^_^)

毎朝坐禅を組み、一日一万歩あるく仏者(筆者)のBMIは【22.1】図説

誰も「一日一万歩」を強要しませんしここはダイエットのブログではありません!

ですが筆者のBMI22.1は貴重な数字らしいので載せておきます。
こちら

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腹囲は恥ずかしいので消しました。(^_^)

これは去年(2017年)のデータです。今年のはまだ不明。

これと言って太ったことがないので「ダイエット」という単語にはあまり反応しないタチです。
ただ、不健康だったことはあるので、生活に坐禅やウォーキングを取り入れて数年が経ちました。一日一万歩(弱)歩く日が3年ぐらい続いたので、3年で一千万歩は歩いたでしょう。そりゃあ体型は「理想」に近づきます。

しかし多くの人が既にご存じの通り、BMI22.1(BMIの最高の理想の数値は22.0とされていました)だと……日々、かなりしんどかったです。周りから「痩せすぎてませんか?」と実際言われたこともあります。そして一千万歩ほど歩いた後(3年ほど毎朝歩いたあと)、筋肉の炎症と、なんと「神経痛」になってしばらく休養せざるを得ませんでした(仕事をしつつ)。

ゆいなの健康ライフハックでは「QOL(生活の質)を上げましょう!」と呼びかけているので、太りすぎていて困っていると言うならダイエットも薦めますが、特に主張するわけではないです。昔通っていたジムのトレーナーの方が「少し太り気味のほうが長生きしますよ?」と仰っていた例もあります。

食べることは食欲を満たし、「意欲」(やる気)をみなぎらせます。そういう意味で、仏教的なセルフコントロールの立場からは食べないことより「食べることをオススメします(ほどほどに)」

もしも太ってしまったら、運動不足かもしれません。そのときは毎朝ひたすら歩きましょう。一千万歩もあるけば上記のような健康診断の結果が出ます。筆者の場合は健康診断の医師に「相当頑張ってらっしゃいますね」と言われ、他に「痩せすぎでは」「シュッとしてますね(関西弁)」などなど。

ジムに行っていた頃はワークアウトしたら「プロテイン飲んでくださいね」とお約束のように言われていました。笑。毎日一万余分に歩くなら……それぐらい体のケアをした方が良かったのでしょうね。

何事もバランス良くが大事です。(^_^)。

坐禅と【仏画】のススメ

坐禅の時、ただ壁に向かってするより「仏画」を壁に掛けてそれに向かう方がオススメという話題。

面壁九年の達磨大師。(めんぺきくねんのだるまだいし)は有名です。壁に向かって九年間坐禅をして悟りを開いたと言われます。勿論、日常の生活はしながら坐禅をしたのでしょう。今の我々と変わりません。

坐禅は宗派によって「薄目を開けてする宗派」と「目を閉じてする宗派」があります。どちらがどうとも言えないのですが、双方の主張を書いておきます。薄目を開ける派(主に禅宗)だと「目を閉じると受け身になってしまう。薄目を開けた、いわゆる菩薩の目が良い」。
目を閉じる派だと「闇の中で呼吸を意識する。何か浮かべばそれは雑念であり妄想である」。

という……感じです。はい。

筆者はどちらなのかというと、基本、目を閉じています。が時折薄めを開けてお線香の残り具合から残り時間を確認しています。坐禅は一回四十分と決めていますが、時々目を開けないと時間を大幅にオーバーすることもあったんです。
なので今のスタイルに落ち着きました。

その時折スッと目を開けた時に、目の前に仏画が見えると身も心も引き締まります。冒頭の達磨大師仏画でも良いですし、阿字観(梵語の「あ」の字を心の中で観ての坐禅)をする人なら、梵語の「あ」の字の掛け軸を掛けておいても良いでしょう。

壁に向かって九年坐禅するより、仏画に向かって坐禅する方がはかどるのでは。
そんな話題でした。

メンタルヘルスの終着点。【寛解】【彼と世界の和解】

とあるアニメ映画を視聴しました。
苦しい状況に置かれている主人公から見ると、世界の人(周りの人)は顔に×印が付いているように見えるという描写がなされていました。
その状況では、
彼は世界と敵対しています。

この際メンタルヘルスがどうかという定義はどうでも良くて、一部の仲の良い人以外全ての人、「世界」(周りの人)が非友好的に見える状況は、とても苦しいものです。

タイトルに寛解という言葉を使いました。寛解でも治癒でも、目指すところは「本人が生きやすくなること」だと思います。

冒頭の映画ではラストシーンで全ての人の顔から×印がとれることで、彼と世界の和解=彼の治癒を表現していたと思います。周りに優しい人が沢山いて、本人も必死に努力した結果、救われたケースでした。

作中では特にメンタル系の薬も飲んでいなかったと思います。薬なしでの治癒は本当にレアケースだと思います。映画作品の中でのことですが。

もしも、いわゆるメンヘラを自称している人がいたら、その人に「世界(周りにいる人)と和解することで、生きるのがラクになりますよ」と伝えたいです。筆者には現在影響力も無いですし無理ですが。

世界と和解するためには人間ってそんなに悪い奴ばかりじゃないじゃんと信じられることが必要です。そう信じるために自助努力をしたり他人に助けてもらう人もいます。道は険しいかもしれません。薬の助けが必要なら使ってください。

そこまでしてでも世界と和解する価値はあります!

人生はほんの数十年です。
「医者の本音」という本によると「国民保険の額には限度があり高額療養費制度を使っても、ひと一人の延命は一年間で500万円以内まで」。あり得ないほどの大金持ちでない限り……。

この人生数十年時代に、世界と敵対して生きづらいと感じてる時間なんて無いのです。勿体ないです。

あなたにさちおおかれ。(^_^)