ゆいなの健康ライフハック

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弘法大師(空海)と「お不動さん」

日本の密教と言えば弘法大師空海
筆者も幼少時に映画「空海を観に行きました。

映画の作中で空海が「私がまだ生かされているなら、この崖から
飛び降りても死なない筈である!」
と言って飛び降りるんですよ。
すると、崖の途中に生えている木に引っかかって助かり、

「私はまだ生かされている! なさねばならぬことがあるのだ!」

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夜明けの悟り。

と悟るんですが、あれは天命を悟ったシーンだったんでしょう。
印象的でした。

密教の「仏」と言えば、如来と菩薩と明王ですが、空海如来でもなく
菩薩でもなく、「お不動さん」と呼ばれることが多いです。

不動明王は「炎」を司るとか「力を行使する」仏という少し怖いイメージが
あります。空海がそのお不動さんと呼ばれる理由とは。
「行使する」は「実践する」でもあります。

弘法大師空海の実績は多岐に及びます。日本に密教を伝え真言宗と名付けて広める、
学校を作る、等々。
しかし空海の生まれ故郷四国の人々にとって最も有名なのは、やはり師の行った
大規模な治水事業でしょう。

空海は四国の香川県の辺りの出身と言われています。
その辺は川の氾濫が多かったので、あちこちに貯水池を作って水量を制御して
洪水の頻度をぐっと下げたんです。

これは密教で言う「利他の実践」です。
「宗教をしている」と言う人は多いですが、空海ほど利他の実践、つまり
実際に人を助ける行いをした宗教者はあまりいないのではないでしょうか。

空海がこれほど「実践」(人助け)をしたがゆえに、イメージが不動明王
かさなり、「お不動さん」と呼ばれるに至っているのなら納得です。

と言っても、現在「お不動さん」という呼び方をしているのはかなり高齢の方なので、
「お不動さん」の由来を訊く機会もないです。

訊く機会はないものの、あれほど人助けの実践をした人を不動明王に例えて呼ぶのは
なかなか洒落てて粋だなと、年配の方に尊敬の念を抱くのでした。(^_^)

もしもSNSのアカウントがロックされたら

はい、突然話題がリアルになりましたが、実際に起きたことなので
その体験を書きます。

プライベートなことは書きません。

思ったんですが、影響力の大きな人はロックされる回数はあまり多くないでしょう。
問題になりますから。

逆に。

もし、ここを読んでいるあなたがアカウントロックの経験なんてない
という場合、

影響力が小さすぎる奴だと舐められている可能性
を心配してみてください。
なんのことはない数日前までの筆者のことです。

さて。特に何もやらかしていないのにアカウントがロックされた場合、
向こう(プラットフォーマー)から「あなたの写真を撮って送ってください」
と連絡がきます。
が、
これは「自撮りを送ってね」という意味ではないのでけして勘違いしないように。
正しくは、
「運転免許証など写真入り身分証明書の写真を撮って送れ」の意味です。

これを送信して片が付けば、ロックは解除されます。

もしも何かやらかしてロックされた場合は、相手の指示に逐一従って、それで運が良ければ
なんとかなります。筆者は盛大にやらかしたことはないので、そういう画面は見たことが
ないです。
まぁ、やらかさないように気を張ってSNSするのも大変ですけどね。

草木国土悉皆成仏とは

このブログのタイトルにしている草木国土悉皆成仏とは、
筆者の母校の密教からの言葉です。

空海後の密教でまとめられた言葉と言われ、
近年では哲学者の梅原猛先生が注目しておられます。

草木を始め自然には仏性が宿っており、全てが成仏できるとする
考えです。

全てが(誰でも)成仏できますというのは大乗仏教です。

この世の中は有情(うじょう。心や感情があるもの)と非情(心や感情がないもの)
でできており、草木のような非情でも成仏するし有情も成仏する
(仏になる)ということです。

言い方を変えると

「草木また成ず
如何にいわんや有情をや」

(そうもくまたじょうず。いかにいわんやうじょうをや)。です。

この考えでいくと、

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猫の写真を撮ろうとしたらあくびをされました。吞気。笑
猫ももちろん成仏します(仏になります)(^_^)

「仏になる」とは「悟りを開く」つまり「最高真理を悟る」ということですが、
このあくびをしている猫でもですよ?
人間なら、いつかなんとかなりそうな(悟れそうな)気がしてきませんか?

はじめに

判断と仏教的態度

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春の明け方の桜。最初の記事に桜は相応しいかと。
人生は自分の下した判断の積み重ねです。しかし仏教では「自分事」と「他人事」
分けて、他人事への判断は慎むように戒めています。

Aである、Bである、という余計な判断は傲慢の始まりです。私やあなたが「●●である」
と決めつけるほどエライのですか???ということで。

「AかもしれないしBかもしれない、でもそれは私の与り知らぬ所なので判断はしません
こういう態度は仏教的ではあると思います。

ですが、ここは筆者の生きた証=判断の積み重ねを記録する場所という位置づけなので
そこそこ判断は載せる予定です。なるべくなら自分事に留めたいものですが。

筆者が仏教的と言っても悟りを開いたわけでもなく、出家したわけでもなく、
凡人ですので。

備忘録も兼ねて、日々書き連ねてゆきます。
宜しくお願いします。